原発利権を語った、故高木孝一元敦賀市長の講演内容

原発

「50年後、100年後に生まれる子どもがカタワになるかは分からない。分からないけれど、今の段階では(原発を)おやりになった方がよいのではなかろうか。

こう嘯いた故高木孝一元敦賀市長の講演内容を収録した、経済評論家内橋克人の著書『原発への警鐘』の復刻版が出ていることに今更ながら気づきました。

復刻版は『日本の原発、どこで間違えたのか』に改題された上、2011年に朝日新聞出版から出版されています。

手持ちのものは古書として入手した昭和63年の文庫版で、汚くてボロボロ。復刻版があることなのでこちらは処分することに。

高木孝一元敦賀市長の講演は、原子力政策が全く信用されない、もっとも根源的な部分を含むので、この機会に講演内容は補足も含めアップします。

高木孝一元敦賀市長の講演の背景

高木市長の物議をかもしたこの講演は、志賀原子力発電所建設計画が進められていた石川県羽咋(はくい)郡志賀町(現羽咋市)で1983年1月26日に行われた講演会で行われたもの。主催は羽咋広域商工会。

「能登原発」の有力候補地に、原発推進派の高木市長が後押しに行った形。「能登原発」は1988年12月1日に着工。名称も「能登原子力発電所」から「志賀原子力発電所」変更された。

講演会の内容のあまりの過激さは新聞でも報道されて騒動になった。(「『原発は金になる』推進講演会で敦賀市長」毎日新聞1983年2月5日」wikipedia

テープの入手経路などは後述。

講演の内容

「」内は高木市長の講演内容。引用「」外は内橋の文。筆者注は〔〕に記載。

詳しくは『日本の原発、どこで間違えたのか』で確認してください。

「ただいまご紹介いただきました敦賀市長、高木でございます。えー、きょうはみなさん方、広域商工会主催によります、原子力といわゆる関係地域の問題等についての勉強会をおやりになろうということで、非常に意義あることではなかろうか、というふうに存じております。……ご連絡をいただきまして、正しく原子力発電所というものを理解していただくということについては、とにもかくにも私は快くひとつ、馳せ参じさせて頂くことにいたしましょう、ということで、引き受けたわけでございます」

 

 「防災訓練なんか無用」

「……いわゆる防災義務と称するものは、(原子)炉の周辺から二キロないし三キロというところは、やはりそうしたところの(防災)体制を固めなさいと。こういうふうなことでございます。あるいは住民は避難道路をつくろう、とか、あるいはまた避難所をつくろうとか、こういうふうなことで、私どもに対しましても、強くいろいろ申し出があるわけでございます。けれども、抗議もくるわけでございますけれども、ま、私は防災訓練もやらない、と……。もうそんな原子力発電所は事故があったら、逃げまどわなければならない、あるいは退避しなければならない、ということになったら、もうそれで終わりなんだ。そんなことはゼッタイあり得んのだ、というふうに、自分も、私どものいわゆる住民も、あるいは私も、そういうふうに思っておるわけでございます」

 

 「困るけれど嬉しいこと」とは

五十六年四月、敦賀原発を舞台に放射能漏れ、そして一連の事故隠し、それが結局、発覚という事件がもち上った。

高木市長は「大騒ぎをしたのはマスコミだけで、地元はシメタ! と叫んだ」という。さらけ出された内幕はこうだった。

「一昨年もちょうど四月でございましたが敦賀一号炉からコバルト60がその前の排出口のところのホンダワラに付着した、というふうなことで、世界中が大騒ぎをいたした訳でございます。私は、その四月十八日に、そうしたことが報道されましてから、二十日の日にフランスへ行った。いかにも、そんなことは新聞報道、マスコミは騒ぐけれども、コバルト60がホンダワラに付いたといって、私は何か(なぜ騒ぐのか)、さっぱりもうわからない。そのホンダワラを一年食ったって、規制量の量(放射能被曝のこと)にはならない。そういうふうなことでございまして、四月二十日にフランスへまいりました。事故がおきたのを聞きながら、その確認しながらフランスへ行ったわけです」

ところがそのフランスでも、送られてくる日本の新聞に敦賀の一件が写真入りで「毎日、毎朝、いまにも世の中、ひっくり返りそうな」勢いで報じられる。やむなく帰国すると、こんどは大阪空港に三十人近い新聞記者が待ち構えていた。

「悪びれた様子もなく、敦賀市長帰る。こういうふうにあくる日の新聞でございまして、じつはビックリ。ところが、敦賀の人は何喰わぬ〔ママ〕顔をしておる。ここで何がおこったのかなあ、という顔をしておりますけれど、まあ、しかしながら、魚はやっぱり依然として売れない。その当時売れない、まあ魚問屋さんも非常に困りました。あるいは北海道で採れた昆布までが……。敦賀は日本全国の食用の昆布の七割ないし八割をつくっておるんです。が、その昆布まで、ですね、敦賀にある昆布なら、いうようなことで、全く売れなくなってしまった。ちょうど四月でございますので、ワカメの最中であったのですが、ワカメも全く売れなかった。まあ、困ったことだ、嬉しいことだちゅう……」

 

「売れないのには困ったけれども、まあそれぞれワカメの採取業者とか、あるいは魚屋さんにいたしましても、これはシメタ! とこういうことなんですね。売れなきゃあ、シメタと。これはいいアンバイだ、と。まあとにもかくにも倉庫に入れようと、こういうようなことになりまして、それからがいよいよ原電に対するところの(補償)交渉でございます。

 

 大事故が年に一度あれば

「そこで私は、まあ、魚屋さんでも、あるいは民宿でも、百円損したと思うものは百五十円もらいなさいというのが、いわゆる私の趣旨であったんです。百円損して二百円ももらうことはならんぞ、と。本当にワカメが売れなくて、百円損したんなら、精神的慰謝料五十円を含んで、百五十円もらいなさい、正々堂々ともらいなさい、と言ったんですが、そうしたら出てくるわ出てくるわ、百円損して五百円も欲しいという連中がどんどん出てきたわけです」(会場に大笑い、そしてなんと大拍手!?)

そこで高木市長は公認会計士、商工会議所専務理事、中小企業診断士らを起用して補償交渉専門の委員会をつくらせ、それを盾にしながら日本原電相手に渡り合うのだ。

「百円損して五百円もらおうなんてのは、これはもう認めるもんじゃあない。原電の方は、少々多くても、もう面倒くさいから出して解決しますわ、といいますけれど、それはダメだと。正直ものがバカをみるという世の中をつくってはいけないので、百円損したものは百五十円出してやってほしいけど、もう面倒くさいから五百円あげる、というんでは、到底これは慎んでもらいたい。まあ、こういうことだ、ピシャリとおさまった。いまだに一昨年の事故で大きな損をしたとか、事故がおきて困ったとか、いうひとは、まったくひとりもおりません。まあ、いうなれば、率直にいうなれば、一年一回ぐらいは、あんなことがあればいいがなあ、そういうふうなのが敦賀の町の現状なんです。笑い話のようですが、もうそんなんでホクホクなんですよ。ワカメなんかも、もう全部、原電が買うてしもうた。全部買いましょうとね。しかし、原電がワカメもっとっても仕様がないから、時期をみて皆さんにお返ししましょうとね。そんなことで、ワカメはタダでもらって、おまけにワカメの代金ももらった。そういうような首尾になったんです」

 

 うまい話に感嘆と溜息が

「(原発ができると電源三法交付金がもらえるが)そのほかにもらうおカネはおたがいに詮索せずにおこう。キミんとこはいくらもらったんだ、ボクんとこはこれだけもらったよ、裏金ですね、裏金! まあ原子力発電所がくる、それなら三法のカネは、三法のカネとしてもらうけれども、そのほかにやはり地域の振興に対しての裏金をよこせ、協力金をよこせ、というのが、それぞれの地域である訳でございます。それをどれだけもらっているか、をいい出すと、これはもう、あそこはこれだけもらった、ここはこれだけだ、ということでエキサイトする。そうなると原子力発電所にしろ、電力会社にしろ、対応しきれんだろうから、これはおたがいにもう口外せず、自分は自分なりに、ひとつやっていこうじゃないか、というふうなことでございまして、例えば敦賀の場合、敦賀二号機のカネが七年間で四十二億はいってくる。三法のカネが七年間でそれだけはいってくる。それに”もんじゅ”でございますと、出力は低いですが、その危険性……、うん、いやまあ、建設費はかかりますので、建設費と比較検討しますと(入ってくるカネが)六十数億円になろうか、と思っておるわけでございますが……」”原発はカネのなる木”であることを、高木市長自らの経験をふまえ、とくとくと話し続ける。会場に「原発がそんなにうまい話だったとは!」と感嘆の声と溜息がもれはじめる。その証拠に、拍手、笑いの噴き出す回数がふえていくのだ。

 

 町づくりはタナボタ資金で

「で、じつは敦賀に金ケ崎宮というお宮さんがございまして、(建ってから)ずい分と年数がたちまして、屋根がボトボト落ちておった。この冬、雪が降ったら、これはもう社殿はもたんわい、と。今年ひとつやってやろうか、と。そう思いまして、まあたいしたカネじゃございませんが、六千万円でしたけれど、もうやっぱり原電、動燃へ、ポッポッと走っていった(会場にドッと笑い)。あッ、わかりました、ということで、すぐカネが出ましてね。それに調子づきまして、こんどは北陸一の宮、あの、神宮と名のつくお宮さんは、敦賀の気比神宮だけでございます。これもひとつ、六億円で修復したいと、市長という立場ではなくて、高木孝一個人が奉賛会長になりまして、六億円の修復をやろうと。きょうはここまで(講演に)きましたんで、新年会をひとつ、金沢でやって、明日はまた富山の北電(北陸電力)へ行きましてね、火力発電所を作らせたる、一億円寄付してくれ(会場にドッと笑い)。これで皆さん、三億円、すでにできた。こんなのつくるの、わけないなあ、こういうふうに思っとる(再び会場に笑い)。

まあそんなわけで短大は建つわ、高校はできるわ、五十億円で運動公園はできるわねえ。火葬場はボツボツ私も歳になってきたから、これもいま、あのカネで計画しておる、といったようなことで、そりゃあもうまったくタナボタ式の街づくりが出来るんじゃなかろうか、と、そういうことで私はみなさんに(原発を)おすすめしたい。これは(私は)信念を持っとる、信念!」

 

 その最後の言葉と拍手の音がテープから消え去ることは、永遠にないだろう。

「えー、その代わりに百年たって片輪が生まれてくるやら、五十年後に生まれた子供が全部片輪になるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、いまの段階ではおやりになったほうがよいのではなかろうか……。こいうふうに思っております。どうもありがとうございました。(会場に大拍手)

 

『原発への警鐘』について

手持ちの文庫版『原発の警鐘』(講談文庫)は昭和63年7月15日第2刷のもの(初版は昭和61年9月15日1刷発行)。

『原発への警鐘』は『日本エネルギー戦争の現場』講談社, 1984 を改題したもの。

本書の源流は、原子力発電とその技術、歴史、現場への検証を目的として、昭和五十七年秋にスタートした『週刊現代』連載企画。昭和五十八年十月に連載終了。(「はじめに」より)

役職名や年齢などは取材当時のままとしているが、記事の掲載された日付は記載されていない。

講演会の内容入手経路

『原発への警鐘』に収録されている講演会の内容は、講演会を録音したテープを元にしている。

 敦賀市で取材中のスタッフが録音テープの存在を聞きつけ、所有者の許しを得てダビングしてきたものである。

両面で九十分、うち一時間十五分のスピーチを収めた問題のテープは、つぎの言葉で始まっている。

敦賀市長・問わず語りの”タカリの構造”

録音したのは会場にいた反対派。

高木市長は講演会での発言が暴露された後、「町のためにカネをとってきて何が悪い!」といっている。

 

付記

衆議院議員高木毅は高木孝一の長男。原子力政策推進派であり、原子力規制委員会の新基準を満たした原子力発電所の再稼働に賛成している。

 

せびりの構造とNIMBYへの対価

原発そのもの是非はあるが、原発のようなNIMBY施設受け入れには補償・対価が伴う。

「50年後、100年後の子どもがどうなろうが知ったこっちゃない」という耳を疑う発言や、「せびりの方法」を指南している酷さから、この講演は語りぐさになっている。

ただし、地元の利益を最大限に引き出すこと自体は批判できない。

「施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建ててほしくない」「忌避施設」NIMBY “Not In My Back Yard”(我が家の裏には御免)は、嫌悪度が上がれば上がるほど、受入れ対価は増大する。

「うちの地域には建ててもらっては困る。どこかよそにしてくれ。受け入れるなら無償で受け入れろ」というのもまた勝手な話。いくらまでが妥当な受入れ対価なのかは当事者同士の問題になる。

国の原発行政の是非は別問題。

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